トップページご挨拶一般報告開発にまつわる話写真集著作権お問い合せ

開発にまつわる話

航技研スパコンの開発、利用、広報に関係して30年

航空宇宙技術研究所
廣瀬 直喜


 数値風洞(NWT) が9年にわたる運用を無事終了し、新しいシステムの導入工事が進んでいる。航技研に職を得て以来、最初は空力二部の利用者として、またここ7年は運用管理担当部である数理解析部の中からFACOM230−75APからNWTまでいろいろと関わってきたものとして感慨深いものがある。誰もがそうであるが、"計算機との関わり=故三好甫氏との関わり"といっても過言ではないだろう。私も例外ではない。1971年に空2の超音速風洞に入って、D論から続けて超音速ジェットの数値シミュレーションを行うため、計算センターの運用責任者だった三好さんに挨拶に行ったのが縁の始まりで、ほどなく始まった計算機更新ワーキンググループに加えてもらい、生意気にも F230-75APの開発にも多少関わることになった。 当時は自分のコードで使われる演算にはどんな命令が適しているか等、インストラクションセットの仕様なども三好さんが中心に我々エンドユーザーと富士通陣とが話し合いをしたものだった。爾来、航技研(三好さん)は日本のスパコン開発の実質的なリーダーとなった。我が国最初のスパコンAPから始まって80年代にはM380を間においてVP400、 VP2600とスパコンが開発、導入され、最後に NWTの開発が始まった。AP開発は予定より遅れ、ちょうどその間、私はNASAエームズ研究センター(ARC)のCFD 研究室に滞在する機会を得た。ARCでは当時ILLIAC-IV がようやく稼働し始めたところで、NCARにはCray-1の1号機が入ったところだった。そしてNASF(数値空力シミュレータ施設)計画が始まった。いろいろな情報、資料を持ち帰り、三好さんに伝えたことを覚えている。程なく航技研の計算機開発計画も始まることになり、これらの情報は参考になった。

 航技研の計画は後に数値シミュレータNSという名前で進められることになったが、80年代前半は短距離離着陸実験機飛鳥(アスカ)・プロジェクトと重なったこともあってAPの後継機としてスパコンを導入できずしばらくは汎用機M380などでお茶を濁さざるを得なかった。しかし、やがて来るべき予算獲得を念頭に関係者で内外での広報、宣伝活動を始めた。松野氏(現京都工芸繊維大教授)の提案で計算空力シンポジウムを始めたのもこのころである。開催に当たっては、シンポジウム開催は航技研業務に規定されてないからできない、などという管理部を説得して、"航空機"とつけることでようやく開催にこぎ着けられたのは松野氏の根気強い努力のおかげである。今でこそCFD は当たり前になってしまったが、当時、この種の学会活動は他にはなくて、シンポジウムは我が国の CFD活動の牽引力になったと高く評価している。シンポジウムは数年前に名前を航空宇宙数値シミュレーションシンポジウムANSSと名称も新たに衣替えしたが、所内大口ユーザーの協力を得て毎年開催されてきている。わたしは内外の学会に出かけてはCFDの重要性とCFD には専用スパコンの開発が必須だと、宣伝して回ったものである。シンポジウムでは目玉が必要だが、ゲストスピーカーとして海外の著名研究者を呼ぶのもそのような予算項目がなく、航空機国際共同開発促進基金に申請してやっと費用を賄うなど苦労があったが、ARC時代の人脈がこんな時役に立った。ARC CFD branch副室長のMamoru Inouye氏には第二回の"招待講演"に来てもらったが、文字どおり、手弁当で喜んで引き受けてもらった。当時の部長さんが何とかしてくれる、と胸をたたいてくれたものの、結局航技研が出した謝礼は45分の講演代4500円から税金をさし引いた4050円だった。それに領収署名を要求され、通訳で間に立ったものの立つ瀬がなかったものだ。その後も旧友であるDLR のW.Kordulla氏 や米国のAntony Jameson氏、 後出NLR のLoeve氏にも来てもらった。

 またすこしさかのぼるがAP当時から遷音速空力解析汎用ソフトウエア開発を計算センター、空力二部、機体部の研究者(高梨、河合、廣瀬、松野、中村、石黒、磯貝、中道、他)を集めて神谷室長をリーダーに始めた。ソフト開発では研究者とSEが一体となって、研究コードをベースに、効率的なベクトルコードを作り、誰でも使えるようにIOを整備し、マニュアルもまたきちんとそろえることをめざし、実際、大変な量のマニュアルを手書きで作った。ソフト開発という形で人を雇って仕事をすること自体、所内では初めてであり、会計課とも多くの折衝を行い、実現にこぎつけた。またその中で私は優秀な大学生をSEとしてパートタイムで働いてもらう道を開いた。所雇いのアルバイトの賃金では優秀な人材を集めることは不可能だった。フルタイムのSE採用も含めて数学、プログラミングの基本知識を問う簡単な採用試験も取り入れた。伝え聞くところでは某社では受験前に特訓をしたそうだ。打ち合わせを毎週定期的に開いて進捗状況を検討し、SEの方にはソフト作りに専念してもらい、計算、研究助手代わりにすることは厳として禁じるなど、ソフト開発マネージメントは研究とは異なることをはっきりさせた。シンポジウムにしてもソフト開発のためのSEやアルバイト雇用も我々が道を開き、その後普及した。

 計算機の運用を審議する機関として各部委員からなる電子計算機委員会があったが、委員は必ずしも計算機利用者とは限らないこともあり、計算機更新、プロジェクトの審議、推進には専門的知識も必要とし、これまではWGを委員会の中に設置して検討してきたが、三好さんは数値シミュレーション技術等検討委員会を作り、主だった大規模計算者に委員を委嘱して、経常恒常的なものとし、数値シミュレータプロジェクトの推進に所内向け雰囲気作りに当たった。部をまたがった多くのユーザーの声をオフィシャルに位置づけるというセレモニーがこの種のプロジェクトには必須である。外部にしても同様である。計算空力シンポジウムは自前の会議であり、当然であるが、航空学会、学術会議などの会議も大いに活用した。もちろん、実質を伴わないプロジェクト要求では予算はつかない。大口ユーザーが大規模計算による優秀な研究成果を出すことがあっての宣伝、広報である。わたしは 79-80年ごろから故河合氏とで2次元遷音速翼型NS解析法の開発にあたり、自分の学問的な興味だけでなく、産業界にとって魅力的な計算も行い、宣伝につとめたが、VP 400のころになると、もっと計算をしたくてしょうがない人たち:故高梨氏、磯貝氏(現九大教授)、石黒氏(退職)、中道氏、野崎氏、藤井氏(現宇宙研教授)、中橋氏(現東北大教授)らが大規模計算の成果をどっさりと出してくれた。

 80年代も終わりに近づくと NALの CFD研究も海外でも関心をもたれるまでになった。国産スパコンは米国にとって驚異/脅威になり、米国防省からはスパコン、CFD は要注意の戦略的技術(Transfer Sensitive Technology) であり、国際会議での発表や研究交流も強い制約を受けるようになり、NASA訪問も許可されなくなってしまった。そういうさなかで NWT計画は始まったので、内外貿易摩擦には特に注意を払わねばなかった。まず、 NWT計画は商業機ではなく国家研究プロジェクトであるとの位置付け、88年(?) に始めた可能性研究(Feasibility Study) では内外の計算機メーカーに平等に参加を呼びかけ、辞退した会社からはその旨を表明した念書を出してもらった。研究プロジェクトというのはNASAのNAS計画(NASFから名称変更された)をひとつの参考にしたものである。わたしは '85年にARCを再訪し、 NAS計画の責任者になっていたRon Bailey氏から計画やシステムを見せてもらった。そこで発見したのはNAS と我がNS-Iとの最大の違いはなにかというと、NAS はネットワーク(当時のことだからまだ所内レベルの高速ネットワークである)で結ばれた種々の計算リソース(計算エンジン、画像処理WS、ストレージ、等々)の集合であり、スパコンはいつでも新エンジンと差し替えるひとつの要素として位置付けされている、ということだった。76年のARCでも計算機はCDC7600とAmdahl-470 (富士通製!)それに試験中のILLIAC-IV とあったが、それよりもびっくりしたのはものすごい広さのMT貯蔵所と大勢のオペレータがMTを次々に出したりしまったりしている姿だった。NS-Iも次のNS-II(NWT)でもそうだが、(語弊があるかもしれないがあえて言わせてもらうと)日本の計算センターでは、"狭い住宅に不相応に立派な床の間と掛軸"といった形で高ピーク性能のスパコンが鎮座しまする、といった感じである。だいたい、計算機の"周辺機器"という言葉自体がそれを表わしている。我が国の予算事情から、所詮仕方ないのかもしれないが、周辺機器(ネットワークのソフト技術を含めて)が実は主体にならねばならない、ということはこれからのセンターでは重要だと思う。幸い次期システムではそういう方向になりそうで喜ばしい。

 さて、横道には行ってしまったが、 NWT開発は最終的には富士通提案のVP400 アーキテクチャを1ボードに載せ、高速クロスバーで結合する並列計算機が採用されることとなった。三好さんの頭には必ず動くとの信念があったのだろうと想像するが、私や福田氏(現原研)(福田氏はVP400 からNWT に至る開発、導入の実質責任者として縁の下の力持ちの仕事を我慢強く果たしてくれた。決して NWTは三好さんだけの力で出来たものではない)は万一、単独でしか動かないとしても、 1.7GFLOPSのこれまでのスパコンに匹敵するワークステーションが 140台入ると考えれば良いではないか、と開き直っていた感がある。もちろんそのような事態にはならなかったが。

 米国との関係はいろんな面があり、アスカではNASA ARC と共同研究を行う一方で、CFDでは前述の通りであったので、われわれは遙か西を眺め、スエーデン FFAやオランダ NLRとの共同研究の道を開いた。88年には遷音速研究では最高権威であるTRANSSONICUM IIIがゲッチンゲンで開かれ、高梨氏と連名でCFD研究の紹介を行った。ちなみに62年の第一回にはNAL からは細川氏が派遣され、研究界にその名を残している。FFA とは90年から共同研究を始め、私を始め、高梨氏、浅井氏に出かけてもらった。インターネットは現地でも NALでもまだ電話回線で細々とつながるような状態であったが、高梨氏が現地で世界的研究である彼の逆解法コードを指導することになり、e-mailとFAXとでもって彼のファイルの中から必要なモジュールやデータを取り出してe-mailで送る、などという"実験"を行った。海外で NALのコードが使われたのはおそらくこれが初めてであろう。FFA ではこのコード利用に人を割り当て、報告もだされた。FFAからはAnders Lundbladh 氏が来てVP400でDNS 解析の計算を行った。NWT が動き出した93年秋にも再来日してNWT で大規模解析をした最初の外国人になった。なお、最初にNWT を使った外国人はその夏にSummer Institute Program で来所、私が指導した米国Dartmouth 大学の博士課程学生Wesley Jones氏である。彼は英文でNWT の紹介と利用法のガイドブックを書いてくれ、Internet news に流してくれた。この5月に奈良で開かれたISHPC2002でSPEC-HPF 運営委員として来日したWesley氏と再会するとは夢にも思わなかった。92年にはオランダ NLRとの共同研究も始めた。NLRで開かれたIsNAS会議ではNWT プロジェクトを紹介し、きっと近いうちにNLRの端末からNALのシステムにlogin して大規模ジョブを走らせることも出来るだろう、と"夢"を語った。93年会議には故和田氏と相曽氏に出席してもらい、動き出したNWT の報告を行った。NLRの計算研究部長のLoeve氏や室長のVogels女史とは、その後も相互訪問したりして交流を深めた。ちなみにNLRはNEC のSXを使っていた。

 欧州との研究交流はその後、松下氏(現福井大教授)、中道氏のドイツDLR との空力弾性共同研究、齊藤氏のフランスONERA との回転翼空力共同研究なども行われ、その中ではNWT を使ったCFD が重要な位置を占めている。

 JUNET によるInternet news の活動は90年代にはいると盛んになり、NAL でもPC 端末からcommand line で種々の電子ニュースに接することが出来るようになった。そのなかにcomp.super、 comp.parallel というニュースグループがあり、Top500 supercomputer sites というリストやJack DongarraのLinpack ranking が流されていた。NWTが動きだしてから、読むとだいぶ間違ったニュースが流れている。これは一方では精確な情報を世界に発してなかった我々の責任でもある。計算機関係者の読むニュースで誤った理解が広まることは貿易摩擦のまっただ中にいるだけに政治的に困ったことになる。そういう観点からわたしは半ば独自に航技研における正しいデータを基にしたニュースをこれらにポストした。それが翌94年のSC94 Gordon Bell Award で NWTがHonarable Mentionを受賞するきっかけになった。その後多くの研究者の努力でGordon Bell Awardは95、96年にも本来の性能部門で受賞した。またNWT の成功は米国でASCI計画が始まるきっかけを作ったと我々は考えている。SC会議でASCI計画を紹介した時正確な言葉は忘れたが、DARPAの講演者は、"この計画は米国政府と計算機メーカーとのパートナーシップである"(言外に、だから調達ではない、外国メーカーは仲間ではない、と言ったのである。外国メーカーとは日本の3社しかないのである)。そっくり NWT開発のプロセスをまねられてしまったのである。ちなみに ARCのNASFは同様の開発計画だったが、のちに商業機調達の形でNAS 計画になっている。米国では政府主導開発は公正取引の関係で会社から訴えられる危険が十分ある。エアバス開発を米国が非難しているのも同じ理由からだ。それを計算機に限って変えてしまったのだ。 あの時、我々はもしかすると虎のしっぽを踏んでしまったのかもしれない。そしてまたもアースシミュレータで…

 最後に、NWTはじめNAL計算機の開発、運用、CFD 研究による成果の算出に貢献された多くの人が航技研を離れ、また故人になってしまわれた。 石黒氏、山本稀義氏、岡本氏らは定年退官され、磯貝氏、藤井氏、中橋氏、松野氏らは大学に要望されて転出された。また和田氏、高梨氏、畑山氏、安喜氏、山崎氏、曾我氏、河合氏は故人となられた。
 ここに名前をあげることで謝意を表すとともに、謹んでお悔やみ申し上げる。


 トップページに戻るご挨拶一般報告開発にまつわる話写真集著作権お問い合せ

footer